2009年12月17日

非特異的アレルゲン免疫療法

特異抗体以外の方法で減感作を達成する方法も古くから検討されている。非特異的アレルゲン免疫療法の最大の利点は減感作療法の重篤な副作用に対するリスクを回避できることが期待される点にある。日本ではヒスタミン加人免疫グロブリン(ヒスタグロビン)やワクシニアウイルス接種家兎炎症皮膚抽出液(ノイロトロピン)が医薬品として承認されており、これらを数回にわたってルーチン注射する抗原特異的ではない減感作療法もあるが、一部の医療機関を除き近年はあまり実施されない(これらは減感作療法には含めないこともある)。アレルゲンが特定できない場合に行われたり、特異的減感作の効果をあげるために並行して行われることもある。アレルギー疾患患者の尿から採取した抗アレルギー物質であるMSアンチゲンも使われてきたが、現在は製造を終了している。

また、結核菌抗原であるBCGを非特異的減感作療法に適応した早期臨床試験(小規模臨床試験)では初回投与からIgEが1/3に低下する成績も見られている。

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減感作療法
注射した部位にかゆみ、腫れ、発赤が見られる。蕁麻疹やアナフィラキシーなどのような全身症状が稀にみられ、緊急治療が必要となることがある。この様な副作用が起こった場合、アレルギー専門医は投与量を安全な量に調整する。患者は治療直後の重篤な全身症状に波及しないことを見極めのため、治療後20—30分は治療した医療機関で観察することが求められる。患者が治療前後の数時間の間は激しい運動や体温上昇を避けると、これらの全身症状のリスクは軽減される。
β遮断薬の様ないくつかの心臓病薬・高血圧薬は減感作療法には禁忌である。
専門医は患者のアレルギー症状が悪化したり、風邪の様な症状の場合は別の種類のワクチンを処方すべきである。アレルゲン免疫療法は風邪の罹患リスクを増大させることはない。
舌下減感作療法
舌下減感作療法の副作用は一般には穏やかであり局所反応にとどまる。よく見られる副作用は口内の掻痒感、軽度の口唇の浮腫、耳の掻痒感、喉の炎症、くしゃみである。稀な副作用には頭痛、口内感覚異常、目のかゆみ、結膜炎、咳、喘息、咽頭炎、鼻みず、鼻詰まり、咽喉絞扼感、掻痒、けん怠感である。

2009年12月01日

茶碗

茶碗(ちゃわん)とは、元々は磁器で作られた喫茶のための食器。喫茶の普及と共に「茶碗」という言葉も広まり、喫茶用途以外の磁器も指す磁器の代名詞として使われた。江戸時代には、素焼の土器や木椀に代わって磁器の食器が使われるようになり、「飯茶碗(蓋付碗)」、「煎茶碗」などの言葉も生まれた。現代日本では通常、「お茶碗」と言った場合、飯茶碗を指す。

茶碗は、その名のとおり茶を飲むための器であり、湯呑み(ゆのみ)や湯呑茶碗(ゆのみちゃわん)とも呼ばれる。茶器の一つとして中国で生まれ、奈良時代から平安時代をかけて茶と一緒に日本に伝来したと考えられている。 日本ではご飯をよそうための椀を特に ご飯茶碗(ごはんちゃわん) や 茶碗(ちゃわん)、飯碗と呼ぶ。 日本の家庭での茶碗は湯呑茶碗でもご飯茶碗でも、箸と同様に属人器である。古来から多くの家庭で、各人専用の湯呑茶碗とご飯茶碗が定められている。

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ヨーロッパでは、茶碗に相当するものはcupと呼ばれるもので、東アジアから喫茶の習慣が伝わった当初は、把手のないカップが主流であったが、次第に把手付きのものが増え、やがてこれが普通となった。英語では把手のないものを tea bowl, 把手のあるものをtea cupと呼び分ける。Cupはその後更にビュートシェイプ、ピオニーシェイプ、ロンドンシェイプなど様々な形(シェイプ)の変化を生じた。またコーヒー用のカップはcoffee cupと呼ばれるが、紅茶、コーヒー兼用の形もある。ヨーロッパでは茶托に当るものはカップソーサーと呼ばれ、カップと同様の材質、デザインで作られ、カップとセットになっているのが普通。材質は磁器、または炻器製が圧倒的に多い。また米飯用の食器はrice bowlと呼ばれる。

2009年11月27日

女装表現の魅惑と萌え

これらについては、メディアにおける「登場人物設定のガジェット」というべき類に入るとも考えられるが、作品の主題ではないことが明らかであるにもかかわらず敢えて「女装」の状況を作品に挿入する理由がまた別にある。

このようなメディアの読者・消費者が、女装や性転換、ふたなりなどに対し魅惑を抱いている可能性が高い。21世紀の魔術的観念論ともいえるが、ジェンダーの像は時代や社会と共に変動しており、20世紀後半以降となると、固定的なジェンダー・イメージに対する疑問が提示され、性の多様性はすなわち「ジェンダーの多様性」であり、性役割や性自認に関してより柔軟で可能性の高いイメージが潜在的に求められているといえる。

自己の存在のありように対し、より高い自由度を求めると共に、時代や周囲の文化の流行が一つの規範ともなっている。男性か女性かのジェンダー・アイデンティティは誕生後24月程度の時期に確立されるとされるが、性役割の認識と学習はそれよりも時間が必要であり、両親が子供をどのように扱うか、幼稚園・学校の教師の影響、更に同級生や同じ年代の子供のジェンダー概念が大きく影響する。加えて、子供の周囲に存在する多様なメディアのメッセージがこれに関係する。子供自身は「自己の性別は生涯変更することができない」ことを学習するのは一般にプレ思春期に入ってからである(かなりな確率で出現する半陰陽の人の性自認の問題はここでは別にする)。
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日本では、十代〜二十代の青少年のあいだで性的自己同一性が拡散しているとの文献的報告による裏付けはないが、メディアが提供する仮想世界の状況では、男女の性転換が容易に可能であり、性役割の移行が表現され、両性具有性が実現されている。消費者は「女装」表現に魅惑を覚え、これを「萌え」とも称している事実がある。やおいにおいて男性キャラクター間の同性愛関係設定に魅惑があったように、男性登場人物に「女装設定」を行うことが、読者には魅惑要素となっているのである。

2009年11月13日

チッソ水俣工場では

チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない。だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生に関係したと考えられている。生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガンを硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたと考えられている。また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。
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なお、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(実際には、誰も研究しておらず、現在水俣湾の有機水銀濃度が増えたというデータは存在しないだけである)。

2009年11月02日

醤油は正油とも書く事がある

醤油は正油とも書く事がある。これは醤の漢字が常用漢字に含まれていなかったため、常用漢字に準拠しようとする、役所やそれに類する団体が当て字を用いざるをえなかったことによる[要出典]。調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの「さしすせそ」で、醤油は「せうゆ」として「せ」に割り当てられているが、歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。醤油の別名、したじは吸い物の下地の意から、むらさきの別名の語源は諸説あり、醤油の色から来た女房詞、または江戸時代に筑波山麓で醤油が多産されたことからとも言われる。

英語では soy sauce といい、また大豆のことを soybean と呼ぶ。これらの語に含まれる soy(-) は、日本語「しょうゆ」がオランダ語経由で伝わったものである。
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醤油のルーツは醤(ひしお)であるとされている。醤は、広義には「食品の塩漬け」のことを指す。紀元前8世紀頃の『周礼』で、「醤」という漢字が初めて使われた。文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。また923年公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。また『和名抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。

2009年10月22日

九鬼周造

九鬼 周造(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。東京都生まれ。
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼嘉隆。母は周造を妊娠中に岡倉天心(隆一は岡倉のパトロンであった)と恋におち、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった。生みの父・隆一、精神上の父・天心、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。

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織物
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日用品
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ホスピス
民話
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為替レート
免疫学
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剣道
切り絵
インフルエンザ脳症
バイオリズム
1904年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。第一高等学校独法科に進むも文科に転じる。東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、ヨーロッパ諸国へ足かけ8年間ものあいだ留学。はじめドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、彼はそれでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、彼の哲学から強い影響を受ける。その後ふたたびドイツに留学すると、今度はマルティン・ハイデガーに師事し、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデガーの哲学を受容した最初の世代にあたり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデガー受容において彼が果たした役割は少なからぬものがあるといえる。

2009年06月22日

ビタミンKは食物からの摂取と並んで

ビタミンKは食物からの摂取と並んで、幾つかの種類に属する複数腸内細菌によっても供給される。ビタミンKは血液凝固作用(止血)にも関係し、これが不足すると各種内出血といった欠乏症が発生する。ヒト成人に於いては通常、腸内細菌による供給だけでも充分必要量を賄えるが、生まれたばかりのヒト新生児では、まだ充分に腸内細菌叢が形成されて居ないため、これを充分に生産出来ない事から、腸内出血(血便)などの異常が発生しやすく、また抗生物質の投与により腸内細菌叢が損なわれた際には、同様に欠乏症が発生し得る。

なおビタミンKは骨のカルシウム定着にも関係しており、不足する事で骨粗鬆症の弊害も起き得るとされる。食品ではチーズや発酵食品の納豆等に豊富に含まれ、新生児を含む乳幼児では母乳などを介して摂取されている

腸内細菌の最初の発見は、微生物そのものが発見されたのと同時期に、レーウェンフックによって行われた。レーウェンフックは1674年から、自分で作製した顕微鏡を使って環境中のさまざまなものを観察し、細菌などの微生物を発見したが、彼はヒトや動物の糞便についても観察し、腸内細菌をスケッチしている。

1876年にロベルト・コッホが炭疽菌の純粋培養に成功したのをきっかけにさまざまな細菌が分離されるようになったが、当時のヨーロッパではコレラや腸チフスなどの消化器感染症が流行しており、その患者から病原菌を分離するときに同時に分離されてくる、健常者にも存在する常在菌として、大腸菌(1885年)など、いくつかの腸内細菌科の細菌が分離同定された。しかしこの当時はまだ、酸素に触れると死んでしまう偏性嫌気性菌の存在についてあまり知られていなかったため、実際に培養できたのは腸内細菌の10%にも満たなかった。残りの大部分である、培養できない偏性嫌気性菌については、死んだ菌の残骸であると考えられていた。
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1880年代に、未消化タンパク質の腐敗によって発生した毒性を示す化合物が小腸から発見された[6]。イリヤ・メチニコフが自家中毒説として発展させ、毒素が腸から吸収され寿命を縮めると仮定し、19世紀終わりごろには大衆に広く知られるようになった[7]。

1899年、パスツール研究所の研究員であったティシエは、母乳栄養児の糞便から偏性嫌気性菌であるビフィズス菌を分離した。この当時、母乳と人工乳のどちらが与えられるかによって新生児の発育や死亡率などに違いがあり、母乳栄養児の方が健康状態がよいということが知られていた。ティシエはこの違いを明らかにするために糞便中に分離される腸内細菌に着目し、当時はまだ技術的に未熟であった嫌気培養法によってビフィズス菌の分離に成功して、母乳栄養児にこの菌が多く見られることを明らかにした。この発見によって、腸内細菌が宿主の健康に関与していることが注目されるようになり、また20世紀初頭にかけて、多くの偏性嫌気性菌の分離が行われるようになった。

1904年、イリヤ・メチニコフはパスツール研究所の副所長に就任した。1907年『不老長寿論』という著書を出版した。これは、ブルガリアに長寿者が多いことから端を発する説で、乳酸菌を摂取させたところ腐敗物質が減少したので、毒素が発生する(自家中毒になる)のを防止するために乳酸菌を摂取すれば長寿になる、というものである。ブルガリアの乳酸菌の他に、ケフィアや酢漬け、塩漬けの食品によって人々は知らずのうちに乳酸菌を摂取していることを指摘している[8]。メチニコフは1908年に、細胞性免疫を発見し、食細胞説を提唱した功績でノーベル生理・医学賞を受賞したため、不老長寿説は受賞とは無関係な研究であったものの脚光を浴びることになった[要出典]。しかし、後にメチニコフが提示した乳酸菌(ブルガリア菌)はその大部分が胃で殺菌されてしまい、腸には到達しないことが明らかになり、また同時に、腸内の腐敗物質だけでは老化やさまざまな疾患発生が説明できないことも明らかになったため、この説は下火になった[要出典]。

1918年、ジョン・ハーヴェイ・ケロッグは『自家中毒』[9]という著書を出版し、自家中毒説をもとに未消化の肉には毒を作り出す細菌が繁殖し、毒によって体の不調を招くという理由で菜食を勧めていった。またケロッグはシリアル食品を開発し、食物繊維は腸を刺激して毒を発生させる時間を短くすることにより健康にとって重要であるという宣伝を行なったため、大衆に食物繊維の重要性が認知されていった[7]。

1950年頃、腸内細菌の役割について宿主との共生という観点からの研究が再び盛んになり、嫌気培養技術が大きく発展したことも手伝って、細菌叢調査法が発展し、その実態解明が進んだ。腸内常在微生物叢が宿主の健康に関与していることも次第に明らかになった。腸内細菌バランスに介入することで健康維持を図ろうとする製剤、あるいは健康食品の開発が行われるようになった。

1965年、リリーらによってプロバイオティクスとして提唱され[10]、以降、乳酸菌を用いた醗酵食品を腸内に到達させる研究が進んでいった。

1995年、有用な腸内細菌を増殖させる物質としてプレバイオティクスという概念が提唱される[11]。プレバイオティクスの代表的なものには食物繊維やオリゴ糖がある。プロバイオティクスとプレバイオティクスの両方の機能を併せ持った食品はシンバイオティクスと呼ばれる。

2009年06月04日

コリントの信徒への手紙一

『コリントの信徒への手紙一』は新約聖書に収められた書簡の一つ。使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙である。『コリント人への第一の手紙』ともいわれる。続けて書かれた第二の書簡『コリントの信徒への手紙二』もある。『一コリ』という略称が用いられることもある。

この手紙はエフェソスで書かれ、おそらくパウロのエフェソス滞在の三年目の五旬祭を前に書かれたものであると考えられている。このころ、パウロはマケドニアの信徒を訪ね、コリント(コリントス)へもまわろうとしていたと考えられる。しかし、コリントの共同体がもめているという話を知らされたパウロは愕然とした。この話をパウロは、協力者アポロやクロエの家の人々から、またステファナらが直接もたらした書簡によって知ったのだった。当時のローマ帝国には一般市民が利用できる郵便配達システムは存在しなかったため、手紙は旅行者によってもたらされていた。

パウロがこの手紙を書いてコリントの共同体の人々に伝えたかったことは「信仰によって一致してほしい」ということであった。また、この書簡を利用してコリントの人々からの疑問に答えている。この手紙はテトスとその兄弟によってコリントへ運ばれたと考えられる
この手紙の内容は以下の四つの部分に分けることができる。
産業 脱毛 行政書士 新築 ビジネス 防犯 抜け毛 文房具 介護 スポーツ 海外留学 海外 学習 ホテル プチ整形 賃貸 メイク SEM促進 ポイント 介護 結婚 アレルギー ペット ステイ 家電 外国語 信越北陸 コスメ 公園 ネイル SEO対策 実益 美容整形 増客対策 仏壇 介護 懸賞 アレルギー アウトドア 語学 楽器教室 楽器教室 近畿東海 フレグランス 雇用 プチ整形 旅行代理店 生活 アレルギー 結婚

まず第一の部分は1章~4章でパウロがコリントの共同体で起こっていた深刻な分裂について嘆いている。
第二の部分は5章と6章で、パウロがコリントの共同体で起こっているといわれた不道徳な行いについて改めるよう忠告している。
第三の部分は7章~14章にわたる箇所で、コリントの信徒からの疑問点にパウロが答えている。この中で「主の晩餐」について触れられていることからパウロ時代の教会生活の一端がうかがえる。また13章には「愛の賛歌」と呼ばれる箇所が含まれている。
第四の部分、結びの部分となる15章と16章は死者の復活についてのパウロの考えが記され、最後の挨拶が述べられている。
ともすれば聖人の集まりのようにみなされ、美化されがちな初代教会であっても現実にはさまざまな問題や困難があり、パウロのようなエネルギッシュな人物であっても常に悩みや苦しみがあったことを如実に伝える書簡である。

長い書簡であり、内容も多岐に渡ることから、この書簡がいくつかの書簡の集合体ではないかと考える研究者がいる。が、具体的な分割案として多くの研究者が合意できるものはない。

2009年05月01日

寛永の大飢饉

寛永の大飢饉(かんえいのだいききん)は、江戸時代初期に起こった飢饉。江戸初期においては慶長から元和年間にもしばしば凶作から飢饉が発生しているが、そのなかでも最大の飢饉。島原の乱とともに江戸幕府の農政転換にも影響した。
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寛永19年(1642年)前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在していた。島原の乱が収束した寛永15年頃には、九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、牛の大量死をもたらした。寛永17年(1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火し、降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となった。

翌寛永18年(1641年)に入ると、初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。不作はさらに翌19年(1642年)も続き、百姓の逃散や身売など飢饉の影響が健在化しはじめると、幕府は対策に着手した。同年5月、将軍徳川家光は諸大名に対し、領地へ赴いて飢饉対策をするように指示し、翌6月には諸国に対して、倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、御救小屋の設置など、具体的な飢饉対策を指示する触を出した。これは、キリシタン禁制と並び、幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。また、こうした政策は後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。

寛永19年末から翌20年(1643年)にかけて餓死者は増大し、江戸をはじめ三都への人口流動が発生。幕府や諸藩は飢人改を行い、身元が判別したものは各藩の代官に引渡した。また、米不足や米価高騰に対応するため、大名の扶持米を江戸へ廻送させた。3月には、田畑永代売買禁止令を出した。

大飢饉に至った原因として、全国的な異常気象のほか、江戸時代初期の武士階級の困窮が指摘されている。幕府は、武士の没落を驕りや華麗によるものと捉え、武家諸法度などで倹約を指示していた。武士の困窮は百姓に対する更なる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。

島原の乱から寛永の飢饉を契機に、幕府の農政は倹約から百姓撫育へと転換し、諸大名に課せられていた普請役は激減した。また、諸藩も遅れて藩政改革に乗り出した

2009年04月16日

チャガタイ死後の混乱

1241年、オゴデイが没し、その翌年にはチャガタイが没すると、重鎮を立て続けに失ったモンゴル帝国ではハーンの後継者争いを巡って内部に葛藤が起こった。チャガタイは生前にバーミヤーン攻囲戦で戦死した長男モエトゲンに代わり、モエトゲンの四男でブリの弟であったカラ・フレグを後継者としていた。

オゴデイ家とチャガタイ家はドレゲネ皇后の説得の結果、シレムンの擁立を諦め協力してオゴデイの長男でドレゲネの実子であるグユクを第3代ハーンに即位させたが、グユクと個人的に不仲なジョチ家の当主バトゥがこれに難色を示した。第2代当主カラ・フレグの協力もあって即位したはずのグユクであったが、チャガタイの嗣子たちが生存しているのに、まだ若いカラ・フレグがチャガタイ家の当主であることは不可解である、と称しカラ・フレグを当主位から廃してチャガタイの五男であったイェス・モンケをチャガタイ家当主に任命した。1248年、在位わずか2年でグユクが没すると、バトゥは、先にオゴデイ即位のとき、最大の実力者でありながら兄にハーン位を譲っていたチンギス・ハーンの四男トルイの一門と協力して政変を起こし、トルイの長男モンケを第4代ハーンに即位させた。

モンケは即位すると謀叛の疑いをかけてオゴデイ家とチャガタイ家の王族や諸将に対して大規模な粛清と追放、所領の没収を行い、チャガタイ家の第3代当主・イェス・モンケも処刑された。これによりモンケの認証を受けてカラ・フレグが再び当主に復帰するはずであったが、イリの所領へ帰還する途中病没してしまった。これらチャガタイ家、オゴデイ家の2ウルスは実質上解体し、政権としての実質は失われた。イェス・モンケの後には第2代当主カラ・フラグの嫡子であるムバーラク・シャーの母、オルクナが摂政として当主に据えられ、未亡人を指導者に迎えたチャガタイ・ウルスは本来の所領であるイリ渓谷に押し込められ、逼塞を余儀なくされた。

1259年、モンケが南宋に対する遠征の途上に没し、その弟であるクビライとアリクブケによる内紛が始まると、もうひとりの弟フレグは遠征先のイランに留まって政権(イルハン朝)を樹立し、ジョチ・ウルスの当主ベルケとアゼルバイジャンおよびホラズムの支配権を巡って対立した。このような帝国全体の混乱の隙を突いて、衰退したチャガタイ家やオゴデイ家に再起の機会が訪れた。

再興と挫折 [編集]
農耕地帯である中国を抑えるクビライに対して、遊牧地帯であるモンゴル高原を抑えるのみで物資に乏しいアリクブケは、チャガタイ家を通じてオアシス農耕地を擁する中央アジアを勢力下に置くことで本拠地カラコルムに食料を送らせようと企図し、側近にいたチャガタイ家傍系の王族アルグをイリ渓谷に送り込んだ。ところが、アルグはオルクナから実権を奪って第5代当主の座を確保、イェス・モンケ処刑以来失われていたパミール高原以西のオアシスに対する支配圏を回復すると、アリクブケを裏切ってクビライに通じた。アルグ離反の結果、兵站を失ったアリクブケはクビライに対して降伏を余儀なくされ、クビライのもとにモンゴル帝国は平和を取り戻した。

クビライはアルグに加えてフレグ、ベルケを招いて統一クリルタイを行おうとしたが、アルグ・フレグ・ベルケの3人は1266年に相次いで没した。これによりムバーラク・シャーがチャガタイ家第6代当主に即位するが、チャガタイ・ウルスを自身の忠実な同盟者に仕立てて中央アジアを抑えようと企図したクビライは、ムバーラク・シャーの従兄で、自身に近侍していたチャガタイ家の王族バラクをイリ渓谷に送り込み、ムバーラク・シャーに代えてチャガタイ家第7代当主とした。

ところがバラクはクビライの傀儡となることを嫌い、チャガタイ・ウルスを掌握するとハーンに対して反抗し、マーワラーアンナフルの大ハーン直轄領に派兵してその支配権を実力で奪取しようと活動を開始した。また同じ頃、オゴデイ家の生き残りであるカイドゥがクビライに反旗を翻してジュンガリアからアルタイ山脈方面で勢力を拡大していた。両者はマーワラーアンナフルの統治権を巡って激しく争うが、1269年、タラス川の河畔でジョチ家の代表者とともに会盟して妥協を結び、マーワラーアンナフルを分割した。なお、旧来はタラスの会盟でバラクはカイドゥを大ハーンに推したとされていたが、現在では事実とみなされていない。

オゴデイ家およびジョチ家と同盟したバラクは、イルハン朝の支配するホラーサーンの征服を目指してアム川を渡ったが、イルハン朝の第2代君主アバカに大敗を喫した。この大敗によりバラクの威信は失墜し、カイドゥとの抗争が再燃した。1271年、バラクはカイドゥとの会見を目前に不審な急死を遂げた。カイドゥによる暗殺と言われている。

バラクの死後、ニグベイが即位したがカイドゥと対立して殺害され、チャガタイ・ウルスでは王族同士がカイドゥなど外部の力を借りて内紛を始めた。ウルス内部は混乱をきわめ、1275年にはウルスのあるイリ渓谷の中心都市アルマリクがクビライの子ノムガン率いる軍によって一時的に占領されるほどであった。

この内紛の末にチャガタイ・ウルスは分裂し、アルグの遺児チュベイらはクビライのもとに逃れ、甘粛の西部に所領を得て東方におけるチャガタイ・ウルスの一派を構成した。一方、チャタガイ・ウルスの本領イリ渓谷に残った王族のひとりであるバラクの遺児ドゥアは、はじめカイドゥと対立していたがのちに服属し、1282年にカイドゥによってチャガタイ家の当主に任命された。

カイドゥの傀儡としてドゥアが即位したことにより、チャガタイ・ウルスはオゴデイ家のカイドゥの勢力内に完全に取り込まれ、「カイドゥ王国」の一部となった。

チャガタイ・ハン国の成立 [編集]
ドゥアはカイドゥの存命中その忠実な同盟者として振る舞い、アルタイ山脈方面でクビライ家の元と、甘粛方面で同じチャガタイ一族のチュベイと戦った。しかし1301年に戦傷がもとでカイドゥ死亡すると、ドゥアはカイドゥの後継者問題に介入して勢力回復をはかった。

カイドゥの後継者には先にオロスが指名されていたが、ドゥアはカイドゥの長男にあたるチャパルを支持し、最終的にチャパルを即位させた。これによってオロスとチャパルの間で対立が起こりオゴデイ家が混乱すると、ドゥアはチャパルを見捨て、アルタイ山脈を越えてジュンガリアに侵入してきた元軍と協力してオゴデイ家の勢力を滅ぼした。これによりドゥアはかつてのカイドゥ王国のうちアルタイ山脈以西の遊牧民とオアシスを支配下に組み入れることに成功し、チャガタイ家によるモンゴル帝国の地方政権を樹立した。狭義のチャガタイ・ウルス、「チャガタイ・ハン国」の成立である。

ドゥアはまた、ヒンドゥークシュ方面に進出してチャガタイ・ハン国の最大版図を実現したが、1306年末から翌年にかけてに病没した。ドゥアの死後、後を継いだのはその子のコンチェクであったがわずか2年後に没し、かわって即位したのはチャガタイ家の傍系から出たタリクであった。

チャガタイ・ハン国の実質的な建国者であったドゥア一門とその部将たちはこれに対して危機感を抱き、ドゥアの子ケベクを指導者として反乱を起こし、タリクを倒してこれを殺した。続いてドゥア一門の主力を率いてヒンドゥークシュ・アフガニスタン方面に駐留していた兄エセン・ブカがイリ渓谷に帰国すると、ケベクはエセン・ブカにハン位を譲った。エセン・ブカは弟ケベクの功績を認めて、彼にハン国の経済的中心であるマーワラーアンナフルとフェルガナ盆地の支配権を委ねたので、チャガタイ・ハン国は建国後わずか数年にして政治的な分権化に進み始めた。

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