1241年、オゴデイが没し、その翌年にはチャガタイが没すると、重鎮を立て続けに失ったモンゴル帝国ではハーンの後継者争いを巡って内部に葛藤が起こった。チャガタイは生前にバーミヤーン攻囲戦で戦死した長男モエトゲンに代わり、モエトゲンの四男でブリの弟であったカラ・フレグを後継者としていた。
オゴデイ家とチャガタイ家はドレゲネ皇后の説得の結果、シレムンの擁立を諦め協力してオゴデイの長男でドレゲネの実子であるグユクを第3代ハーンに即位させたが、グユクと個人的に不仲なジョチ家の当主バトゥがこれに難色を示した。第2代当主カラ・フレグの協力もあって即位したはずのグユクであったが、チャガタイの嗣子たちが生存しているのに、まだ若いカラ・フレグがチャガタイ家の当主であることは不可解である、と称しカラ・フレグを当主位から廃してチャガタイの五男であったイェス・モンケをチャガタイ家当主に任命した。1248年、在位わずか2年でグユクが没すると、バトゥは、先にオゴデイ即位のとき、最大の実力者でありながら兄にハーン位を譲っていたチンギス・ハーンの四男トルイの一門と協力して政変を起こし、トルイの長男モンケを第4代ハーンに即位させた。
モンケは即位すると謀叛の疑いをかけてオゴデイ家とチャガタイ家の王族や諸将に対して大規模な粛清と追放、所領の没収を行い、チャガタイ家の第3代当主・イェス・モンケも処刑された。これによりモンケの認証を受けてカラ・フレグが再び当主に復帰するはずであったが、イリの所領へ帰還する途中病没してしまった。これらチャガタイ家、オゴデイ家の2ウルスは実質上解体し、政権としての実質は失われた。イェス・モンケの後には第2代当主カラ・フラグの嫡子であるムバーラク・シャーの母、オルクナが摂政として当主に据えられ、未亡人を指導者に迎えたチャガタイ・ウルスは本来の所領であるイリ渓谷に押し込められ、逼塞を余儀なくされた。
1259年、モンケが南宋に対する遠征の途上に没し、その弟であるクビライとアリクブケによる内紛が始まると、もうひとりの弟フレグは遠征先のイランに留まって政権(イルハン朝)を樹立し、ジョチ・ウルスの当主ベルケとアゼルバイジャンおよびホラズムの支配権を巡って対立した。このような帝国全体の混乱の隙を突いて、衰退したチャガタイ家やオゴデイ家に再起の機会が訪れた。
再興と挫折 [編集]
農耕地帯である中国を抑えるクビライに対して、遊牧地帯であるモンゴル高原を抑えるのみで物資に乏しいアリクブケは、チャガタイ家を通じてオアシス農耕地を擁する中央アジアを勢力下に置くことで本拠地カラコルムに食料を送らせようと企図し、側近にいたチャガタイ家傍系の王族アルグをイリ渓谷に送り込んだ。ところが、アルグはオルクナから実権を奪って第5代当主の座を確保、イェス・モンケ処刑以来失われていたパミール高原以西のオアシスに対する支配圏を回復すると、アリクブケを裏切ってクビライに通じた。アルグ離反の結果、兵站を失ったアリクブケはクビライに対して降伏を余儀なくされ、クビライのもとにモンゴル帝国は平和を取り戻した。
クビライはアルグに加えてフレグ、ベルケを招いて統一クリルタイを行おうとしたが、アルグ・フレグ・ベルケの3人は1266年に相次いで没した。これによりムバーラク・シャーがチャガタイ家第6代当主に即位するが、チャガタイ・ウルスを自身の忠実な同盟者に仕立てて中央アジアを抑えようと企図したクビライは、ムバーラク・シャーの従兄で、自身に近侍していたチャガタイ家の王族バラクをイリ渓谷に送り込み、ムバーラク・シャーに代えてチャガタイ家第7代当主とした。
ところがバラクはクビライの傀儡となることを嫌い、チャガタイ・ウルスを掌握するとハーンに対して反抗し、マーワラーアンナフルの大ハーン直轄領に派兵してその支配権を実力で奪取しようと活動を開始した。また同じ頃、オゴデイ家の生き残りであるカイドゥがクビライに反旗を翻してジュンガリアからアルタイ山脈方面で勢力を拡大していた。両者はマーワラーアンナフルの統治権を巡って激しく争うが、1269年、タラス川の河畔でジョチ家の代表者とともに会盟して妥協を結び、マーワラーアンナフルを分割した。なお、旧来はタラスの会盟でバラクはカイドゥを大ハーンに推したとされていたが、現在では事実とみなされていない。
オゴデイ家およびジョチ家と同盟したバラクは、イルハン朝の支配するホラーサーンの征服を目指してアム川を渡ったが、イルハン朝の第2代君主アバカに大敗を喫した。この大敗によりバラクの威信は失墜し、カイドゥとの抗争が再燃した。1271年、バラクはカイドゥとの会見を目前に不審な急死を遂げた。カイドゥによる暗殺と言われている。
バラクの死後、ニグベイが即位したがカイドゥと対立して殺害され、チャガタイ・ウルスでは王族同士がカイドゥなど外部の力を借りて内紛を始めた。ウルス内部は混乱をきわめ、1275年にはウルスのあるイリ渓谷の中心都市アルマリクがクビライの子ノムガン率いる軍によって一時的に占領されるほどであった。
この内紛の末にチャガタイ・ウルスは分裂し、アルグの遺児チュベイらはクビライのもとに逃れ、甘粛の西部に所領を得て東方におけるチャガタイ・ウルスの一派を構成した。一方、チャタガイ・ウルスの本領イリ渓谷に残った王族のひとりであるバラクの遺児ドゥアは、はじめカイドゥと対立していたがのちに服属し、1282年にカイドゥによってチャガタイ家の当主に任命された。
カイドゥの傀儡としてドゥアが即位したことにより、チャガタイ・ウルスはオゴデイ家のカイドゥの勢力内に完全に取り込まれ、「カイドゥ王国」の一部となった。
チャガタイ・ハン国の成立 [編集]
ドゥアはカイドゥの存命中その忠実な同盟者として振る舞い、アルタイ山脈方面でクビライ家の元と、甘粛方面で同じチャガタイ一族のチュベイと戦った。しかし1301年に戦傷がもとでカイドゥ死亡すると、ドゥアはカイドゥの後継者問題に介入して勢力回復をはかった。
カイドゥの後継者には先にオロスが指名されていたが、ドゥアはカイドゥの長男にあたるチャパルを支持し、最終的にチャパルを即位させた。これによってオロスとチャパルの間で対立が起こりオゴデイ家が混乱すると、ドゥアはチャパルを見捨て、アルタイ山脈を越えてジュンガリアに侵入してきた元軍と協力してオゴデイ家の勢力を滅ぼした。これによりドゥアはかつてのカイドゥ王国のうちアルタイ山脈以西の遊牧民とオアシスを支配下に組み入れることに成功し、チャガタイ家によるモンゴル帝国の地方政権を樹立した。狭義のチャガタイ・ウルス、「チャガタイ・ハン国」の成立である。
ドゥアはまた、ヒンドゥークシュ方面に進出してチャガタイ・ハン国の最大版図を実現したが、1306年末から翌年にかけてに病没した。ドゥアの死後、後を継いだのはその子のコンチェクであったがわずか2年後に没し、かわって即位したのはチャガタイ家の傍系から出たタリクであった。
チャガタイ・ハン国の実質的な建国者であったドゥア一門とその部将たちはこれに対して危機感を抱き、ドゥアの子ケベクを指導者として反乱を起こし、タリクを倒してこれを殺した。続いてドゥア一門の主力を率いてヒンドゥークシュ・アフガニスタン方面に駐留していた兄エセン・ブカがイリ渓谷に帰国すると、ケベクはエセン・ブカにハン位を譲った。エセン・ブカは弟ケベクの功績を認めて、彼にハン国の経済的中心であるマーワラーアンナフルとフェルガナ盆地の支配権を委ねたので、チャガタイ・ハン国は建国後わずか数年にして政治的な分権化に進み始めた。
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